2014年7月26日土曜日

彼女の選択は今の僕に大きな影響を与えてる。

2001年の冬、彼女は子供を産んで一ヶ月で亡くしてる。
「心臓の中隔欠損」の酷いやつ、って言うか、血管もバラバラについていて、産まれて三日目に担当の看護師さんが気づいた。それから亡くなるまでの一ヶ月弱、彼は三度の手術を受け、どうにもならず、都内のある病院のICUで息を引き取った。

その頃、妹は大学病院の看護婦をしていて、終末医療に近い部署に所属してた。4大を出て、その後看護学校に行った経歴を持つ妹は、珍しい存在であり、厚生労働省への医療報告を担当する立場にもあった。

だから、彼女は自分の子供がそういう風に産まれて来た事の原因を探し続けた。なぜなら、理由が解らないままだと、「自分のせい」にするしか無いからだ。どんなに科学的な思考じゃ無いと言われようと、母親は「自分のせい」にする事が多いらしい。彼女は、その「自分のせい」にする事を止める事が出来ず、死と向き合う仕事を辞める事にした。

でも、その後も子供の心臓奇形の原因を探し続けた。
彼女が自分で見つけた答えは、「放射能」だった。2005年の事。チェルノブイリの文献を調べ上げ、それ以外の情報も医療関係者だった自分の立場をフルに利用して、その結論に達していた。

だから、二人目の子供、今の息子がお腹に居る事が解った時に、自分の乳癌が解ったのだが、手術の道を絶対に選ばなかった。手術するには、子供を諦めなければいけなかったから。

無事産まれた。
なぜか?自然療法だけで乳癌も消えていた。

ただ、その時の体験が苦し過ぎて再発の時に言い出せなかった。
検査で詳細な事が解った時には手遅れな状況だった。

それから8年、ずっと癌と闘って来た。
少しづつ慎重に。
「息子が18歳になるまで生きたい」が口癖だった。

そして、少しづつ色んなところに転移して、色んな苦しみを乗り越えて、
でも、7月26日午前1時30分、永眠したそうです。

僕は、いつもと同じ様にcasしてた。
ギター弾いてた。

なんだろ?
彼女と同じ思いは誰にもさせたくない。
答えの出ない問いと闘う毎日を凄く大切な時期に過ごさなければならなかった彼女に僕は謝らなければいけない事がたくさんある。

静かに考える。
それだけです。

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